沖縄県立芸術大学大学院芸術文化学研究科

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琉球における漢文史書の研究 ―首里王府の史書編纂の特性と漢文文化受容を中心に―

氏名(本籍)
呉 海燕ご かいえん(中国)
学位の種類
博士(芸術学)
学位記番号
博7
学位授与日
平成23年3月18日
学位授与の条件
学位規定第4条の2
学位論文題目
琉球における漢文史書の研究 ―首里王府の史書編纂の特性と漢文文化受容を中心に―
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論文要旨および審査結果の要旨
審査委員
  • 教授 波照間 永吉[主査]
  • 教授 大塚 拜子
  • 教授 波平 八郎
  • 教授 上里 賢一(琉球大学名誉教授)
  • 教授 豊見山 和行(琉球大学教授)
  • 論文要旨
  • 英文要旨(English)
  • 論文審査要旨

論文要旨

かつての琉球国は、中国との交流が盛んであった。特に中国の冊封体制の傘下にあった時代に、琉球は中国文化の数々を受容し、その一端が現存の数多い漢文資料からうかがえる。琉球漢文のある部分はすでに琉球文学の一分野として位置づけられているが、これまでの研究は、琉球漢詩だけにとどまっている。琉球漢文による散文、例えば王府編纂の史書は、豊富な情報量を備えて、あらゆる領域で引用されている。しかしながら、これらの文献自体の研究は未だ部分的にしかなされていないのが現状である。

本論文は、首里王府編纂の史書『中山世鑑』、蔡鐸本『中山世譜』、蔡温本『中山世譜』、『琉球国旧記』、『球陽』を対象とし、各文献の記事内容や編纂上の特徴などを考察することによって、それぞれのもつ史書としての基本的性格を明らかにし、琉球における史書編纂の実態を解明するとともに、漢文文化受容の様相を明確にすることを目的とする。

第一章では、琉球最初の正史とされている『中山世鑑』を考察した。王家の系譜に属する記事が全記事の半分以上を占めていることと、中国との朝貢関係に関する記事数の多いことから、『中山世鑑』の「王家の系譜」という性格を指摘し、同書の編纂は、「王家の系譜」と中国関係記事が柱になっていることを指摘した。また、同書の年代表記について、僅かな特殊例を除いてすべて中国年号によることを指摘し、日本年号を採っているという従来の説を訂正した。また、同書は文体が基本的に片仮名・漢字混じり文となっているが、その記述に中国古典からの引用例が多く見られること、さらにその引用の特徴として、長文の引用や、和文訓読での引用を指摘した。

第二章では、蔡鐸本『中山世譜』を考察した。蔡鐸本『中山世譜』の「王家の系譜」という性格を指摘し、「王家の系譜」と中国との朝貢関係を中心に編纂されていることを指摘した。さらに、その編纂特性として「国王中心の記録である」こと、「事件の要領を簡潔に記述する」ことと、「『中山世鑑』より比較的客観的な記述がなされ、記述形式も文章表現もパターン化している」ことを指摘した。

第三章では、蔡温本『中山世譜』を考察した。記事数の大幅な増加や、蔡鐸本『中山世譜』の記述形式を参考にしながらも、より詳細な記述を目指し、体裁を整えたことを指摘し、蔡鐸本『中山世譜』より増加した中国関係の記事群と国相、法司の任官に関する記事群から、同書の資料は『中山沿革志』と『中山王府相卿伝職年譜』に負うところが大きいことを指摘した。さらに、蔡鐸本『中山世譜』でバラバラだった「論賛」を項目として立てたことや、鶴の出現を記述するような、中国の「祥瑞思想」が根底にあると思われる編纂姿勢が、蔡温本『中山世譜』の性格を「王家の系譜」より厳密な意味での「正史」へと近づけさせたことを指摘した。

第四章では、『琉球国旧記』について考察を行った。『琉球国由来記』との記述形式と内容の比較分析を通して、『琉球国旧記』は、『琉球国由来記』より記述が客観的になされている外向性の文献であると指摘し、『球陽』への記事の提供、特に『琉球国由来記』に収載されていない附巻の「泉井」、「江港」、「駅」などの記述は史書編纂にとって大きな意義を持つことを指摘した。

第五章では、『球陽』を考察した。その収載記事が多岐にわたり、王国諸々の事象を収録していることは蔡温本『中山世譜』と対照的である。つまり、蔡温本『中山世譜』は国王の政績や王国としての最重要事、人事、外交などを中心に記述しているのに対して、『球陽』は「国家全体」の発想で琉球国の中央から地方まで、国王から百姓までの記事を収録している。『球陽』は蔡温本『中山世譜』と並行して書き継がれたがその記事がほとんど重ならないことや収載記事の多くが中国正史の「志」に属するようなものであることから、『球陽』の性格としてほぼ中国史書の「実録」に相当することを指摘した。

各章の考察を通して、『中山世鑑』は「王家の系譜」と位置づけができる。蔡鐸本『中山世譜』についても同じく「王家の系譜」と位置づけられるが、記述が漢文を以てなされていることや、体裁を整えたことなどを含め、紀伝体正史の「紀」としての原型を形成したことがいえる。蔡温本『中山世譜』にいたっては、記事の増加や更なる体裁の整え、そして「論賛」項目の一般化や「祥瑞思想」に基づく記事の選択等から、蔡温本『中山世譜』は紀伝体正史の「紀」のような体裁をさらに成長させたといえる。そして、「実録」の性格をもつ『球陽』は、紀伝体正史の各「志」に収録されるような記事をあつめていることや、両書が並行して書き継がれながらもその記事の重なりは極めて少ないことから、当時琉球の史書編纂者たちの「史書観」がうかがわれ、それは国王の政績などを中心とした「中枢」意識で蔡温本『中山世譜』を編纂し、そして「国家全体」の発想で『球陽』を編纂するという二本立ての構想を持っていたことが推測できることを指摘した。

英文要旨

A Study of the Chinese Writing Historiography in the Ryukyus
-Focusing on Characteristics of the Compilation of Historiographies of the Shuri Government and the Reception of the Chinese Writing Culture-

This thesis aims to clarify the basic character of five historiographies by considering the content of the articles in each document, the characteristic of the compilation, etc. and in addition to clarifying the process of historiography compilation in the Ryukyus, it also aims to clarify the reception of Chinese writing culture in the Ryukyus.

Chapter 1 dealt with the Chuzan-Sekan, assumed to be the first official history of the Ryukyus. From the fact that the royal family’s genealogy occupies over half of Chuzan-Sekan, and that there are many articles concerning the tributary relationship with China, it was concluded that these were central pillars of the work.

In chapter 2 I considered the Chuzan-Sefu by Saitaku. The royal-family-genealogy nature of Saitaku’s Chuzan-Sefu was pointed out, and it was shown that it was compiled around the genealogy and tributary relationship with China. In addition, it was pointed out that this work (i) is a record centering on the king, (ii) where events are concisely described, and (iii) comparatively more objective in its descriptions than the Chuzan-Sekan, and the descriptive form and the sentence expression are formulaic.

In chapter 3 I considered the Chuzan-Sefu by Saion. It was pointed out that this work aimed for a description that was more detailed than Saitaku’s Chuzan-Sefu, and it was more organized. It is greatly indebted to the Chuzan-Enkakushi and Chuzanofu-Sokyodenshokunenpu. Also, it brought together as a single entry the biographical comments that were distributed throughout Saitaku’s Chuzan-Sefu. In addition, “shouzui thought” of China ( for example in the description of the appearance of a crane) can be seen as being at the basis of the compilation process, and this makes Saitaku’s Chuzan-Sefu closer to an official history than to a royal family’s genealogy.

In chapter 4 I considered the Ryukyukoku-Kyuki. Through comparison with the form and content of the Ryukyukoku-Yuraiki, it is noted that it is an externally directed document written more objectively that the Ryukyukoku-Yuraiki. It is also significant for historiography compilation that it is the source of articles for the Kyuyo, especially such descriptions as those of “Izumii”, “Inlet port”, and “Station” that are not recorded in the Ryukyukoku-Yuraiki.

In chapter 5 I considered the Kyuyo. The articles included are very varied, contrasting with the various events of the kingdom recorded in Saion’s Chuzan-Sefu. Kyuyo was written in parallel with Saion’s Chuzan-Sefu, but from the fact that there is very little overlap and that many of articles belong to the gazette (shi) style of a Chinese official history, it was pointed out that the Kyuyo is closer in character to the chronicles of Chinese historiography.

In conclusion, Chuzan-Sekan can be positioned as a royal family’s genealogy. Saitaku’s Chuzan-Sefu can also be positioned as a royal family’s genealogy, but being written in Classical Chinese and being more organized, it can be said that it formed the annal (ki) prototype of biographical official histories. In Saion’s Chuzan-Sefu, the number of articles has been increased and the layout is more rigorously organized. It can be conjectured that Ryukyuan historiography compilers had a two-pronged concept of the center (the king’s achievements), reflected in Saion’s Chuzan-Sefu, and the nation, reflected in the Kyuyo. This and the generalization of biographical comments and the choice of articles based on the “shouzui thought” of China leads us to conclude that Saion’s Chuzan-Sefu had further developed the annal-like appearance of biographical official histories.

論文審査要旨

本論文は、近世期琉球国における歴史書編纂の方向性の推移を明らかにしようとした論文である。対象として取り上げた史書は、向象賢編『中山世鑑』(1650年)、蔡鐸編『中山世譜』(蔡鐸本。1701年)、蔡温編『中山世譜』(蔡温本。1725年〜1876年)、『琉球国旧記』(1731年)、『球陽』(1745年〜1876年)である。これらの史書を通観するとき、そこには首里王府の史書編纂の一定の方向性が現れている。これを解明したのが本研究である。

本論文は全体が5章で構成されている。第1章では『中山世鑑』、第2・3章では『中山世譜』、第4章では『琉球国旧記』、第5章では『球陽』を取り上げ、論じている。『琉球国旧記』を除く諸本は、歴史書とされるものであるが、従来の研究ではこれらを論じる場面でまったく基礎的な事柄が欠落していた。すなわち、『中山世鑑』・『中山世譜』の記事に整理番号を付し、目録を作成し、これをもって『中山世鑑』『中山世譜』『球陽』の構成と編纂の方針を明らかにするという視点である。本研究は、その基礎的でありながら、従来の研究がまったく手をつけることのなかったところから出発している。これは、画期的なことである。

第1章は「『中山世鑑』の構成と編纂特性について」と題して、琉球国における最初の史書『中山世鑑』をとりあげ、その史書としての特性を明らかにすることを目指している。その結果、王家の系譜に関する記事が同書の記事の大半を占め、中国との朝貢関係記事がそれに次いでいることから、『中山世鑑』の基本的性格が王家の系譜とその客観性を表現することにあったことを明らかにしている。また、同書の年代表記は従来、日本年号を採用しているということが普通に説かれていたが、特殊な例を除く他は、全て中国年号であることを明らかにしている。

第2章は「蔡鐸本『中山世譜』の構成と編纂特性について」と題して「蔡鐸本」を取り上げた。『中山世譜』はこれまで、『琉球史料叢書』(伊波普猷・東恩納寛惇・横山重編。昭和15年刊)所収本を中心に利用・研究がなされてきた。そんな中、蔡鐸本『中山世譜』は1972年に発見されたが、蔡鐸本についてのまとまった研究はなかった。その意味で本論文は、蔡鐸本についての初の本格的な研究、と言える。この章の結論として、蔡鐸本『中山世譜』が王家の系譜と中国との朝貢関係の記録を目的とする点は『中山世鑑』と同じであるが、編纂の特性として、①国王中心の記録であること、②記述が要領よく簡潔になっていること、③『中山世鑑』に比べて比較的客観的な内容になっていること、④記述形式・文章表現ともにパターン化の傾向が指摘できること、などを明らかにしている。

第3章では蔡温本『中山世譜』を取り上げた。同書は蔡温によって編纂がなされたが、それ以降も記事の仕次が行われ、それは王国末期まで続いた。その意味で同書は、琉球国における史書のあり方を考える時のみならず、蔡鐸本や『球陽』の性格を考察する上でも重要な文献である。これを「蔡温本『中山世譜』の構成と編纂特性について」と題して、正面から取り上げ論じている。その結果、蔡温本『中山世譜』が蔡鐸本に比べて、①大幅に記事数が増加していること、②蔡鐸本の記述形式を参考にしながらも、より詳細な記述を目指し、体裁を整えたこと、③増加した記事は中国関係記事と国相・法司の任官関係記事であり、これらは中国冊封使作成の『中山沿革志』、『中山王府相卿伝職年譜』に拠るものであること、④蔡鐸本では記述に統一性のなかった「論賛」を項目として立項したこと、⑤中国から入った「瑞祥思想」に基づく記事の搭載がみられること、などを明らかにした。そして、蔡温本『中山世譜』に至って、「王家の系譜」を語ることに重心が置かれていた王府編纂の史書が、厳密な意味での「正史」へ歩を進めたことを明らかにしている。

第4章では「『琉球国旧記』の構成と編纂特性について」と題して、『琉球国由来記』との比較研究を行っている。その結果、①『琉球国旧記』は『琉球国由来記』より記述が客観的であり、中国を意識したものとなっていること、②『琉球国旧記』の記事が『球陽』へ受け継がれていること、③附巻の「泉井」「江港」「駅」などの項目は史書編纂にとって大きな意義を持つものであることを明らかにしている。

第5章では琉球国第一の歴史書とされる『球陽』の構成と編纂特性について、蔡温本『中山世譜』など、先行する史書との比較の中で論じている。その結果、①先行史書が王家の系譜を語ることを第一としたのに対し、『球陽』は琉球国という国家および国民全体を記録の対象とするものになっていること、②その編纂時期は蔡温本『中山世譜』と並行しているが、その記事はほとんど重ならないこと、③その収載記事の内容は中国史書の「志」に相当するものであること、などを指摘している。

そして全体として、これら各章の考察から琉球における史書編纂の思想が、王家の系譜の記述(『中山世鑑』)からスタートして、その記事の漢文による叙述、紀伝体正史の「紀」の原型の創出(蔡鐸本『中山世譜』)、そして「論賛」の項の確立など紀伝体正史の「紀」の体裁を整備し、さらには瑞祥思想に基づく記事内容の豊富化を図るなど、「紀」としての性格をさらに進める方向に展開した(蔡温本『中山世譜』)、とする。そして『球陽』は「実録」の性格を有する史書となり、中国における紀伝体正史の「志」に相当するものとなった。蔡温本『中山世譜』と『球陽』の並行した記事の仕次は、琉球国における史書編纂思想に、王家の系譜と国王の事績を中心とした「紀」を編纂する方向と、国家全体の事象を対象とする「志」を編纂する方向の二つが存在したであろう、と結論する。

また、本論文においては琉球における「漢文文化の受容」の問題もテーマの一つである。これについては、各章において取り上げられた史書に即して、その受容のあり方について明らかにしている。そのなかでも漢籍からの引用のあり方が①「原典再現型」、②「原典加工型」、③「原典参考型」に分類されることを明らかにした。そして、『中山世鑑』における漢籍の原典引用は「原典原文の引用」と「原典訓読の引用」の二様があり、しかも他の史書と比較すると、長文の引用や和文訓読での引用になっていることに特徴があること。次いで『球陽』の漢文表現の特徴については、①対句表現の多様、②類義語の多様などがあげられるとしている。そのなかでも、「琉漢語」(琉球製漢語)とでも称せられる独自の漢語を創出して文章に組み込んでいることは注目すべきであることを指摘している。また、中国との朝貢関係に視点を据えて漢文文化受容の具体的展開を追及使用としている点は、一つの問題意識として評価される。

以上のように、本論文は平易な作業を徹底的に行う中から如上の成果を挙げたのであるが、やはり特筆されるのは、『中山世鑑』と二つの『中山世譜』の記事に整理番号を与え、その内容を要約して項目見出しをつけることを行い、それによって『球陽』にいたる全史書の比較検討を容易ならしめたことである。この作業はまったくの基礎的な作業であるが、このような基礎的なことさえなされていないのが沖縄研究の現状でもある。本論文はこれをなすことにより、王府編纂の諸史書の構成と内容の共通性と異質性、そしてそれぞれの史書の特性を客観的に議論する基礎を築いたのである。これは、本論文の意義として評価されるところである。

また、これら史書を同一の視点で比較検討することによって、琉球国における史書編纂の思想の展開を、王家の系譜中心から紀伝体史書への転換と「紀」形式の整備、そして「琉球国志」の構想・模索へ、と跡付けた。これは先行研究でも断片的に指摘されてきたことであるが、本論文によって客観的に証明されたといえる。
以上のような成果を挙げた本論文であるが、いくつかの問題点もある。その第一は、漢文文化の受容の問題を扱う点において、その記述が中国との関係に偏りすぎていることである。琉球における漢文文化の受容は、泊如竹による訓読法の採用という形で日本経由の大きな流れが一方においては存在した。その部分を捨象するわけにはいかない。この点を押さえ、中国・日本双方向からの漢文文化流入の全体像を追求すべきである。第二には、全体として論及が甘くなっていることがある。例えば、『球陽』は琉球国最大の史書であり、その内容も多岐にわたっているが、王府旧記座の果たした役割などを追求する視点の欠如や、『歴代宝案』の存在をめぐる事柄に言及していない、など論点が不足しているのである。さらには、漢籍からの引用を考察するに際しては、中国で刊行された信頼すべき書物によるべきであること、そして漢文の引用には、日本の近世期に刊行されたアンソロジー(抜粋本)の用いられた可能性についての視点を持つべきこと、などもある。これらについては、著者自らも問題の所在を理解しており、今後の研究で細密に展開してもらいたい。
当学位論文審査委員会では本論文について以上の通り審査し、本論文を博士の学位を授与するにふさわしいものと判断した。

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