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近代沖縄における洋楽受容の歴史的研究  ―伝統へのまなざし―

氏名(本籍)
宜保 わかなぎぼ わかな[旧姓=三島](沖縄県)
学位の種類
博士(芸術学)
学位記番号
論文博士4
学位授与日
平成23年3月18日
学位授与の条件
学位規定第4条の2
学位論文題目
近代沖縄における洋楽受容の歴史的研究 ―伝統へのまなざし―
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論文要旨および審査結果の要旨
審査委員
  • 教授 金城 厚[主査]
  • 教授 大塚 拜子
  • 准教授 梅田 英春
  • 教授 久万田 晋
  • 教授 渡辺 裕(東京大学教授)

論文要旨

本研究は明治12年の廃藩置県以降の沖縄県を対象として、洋楽受容の過程をひもときつつ、沖縄人の思考様式ならびにアイデンティティ再編上の特色を明らかにするものである。序論の第1章、本論の第2章から第6章、結論の第7章によって構成された本研究の特色は、洋楽受容を支えた五つの局面、すなわち音楽教育(第2章)、音楽観(第3章)、音楽理論(第4章)、音楽創作(第5章)、演奏と享受(第6章)に分けて論じた点にある。

第1章では、近代沖縄研究ならびに洋楽受容史研究の二領域の研究史を概観することによって、次の二点を指摘した。第一点は従来の近代沖縄の文化史研究が基礎的史料の確認をなおざりにし、「皇民化」「同化」という史観に支配されてきたため、沖縄と日本の中央との文化的影響関係という視点をもたずにいた点である。それゆえに従来の研究では、近代沖縄人の「主体性」が描きだされにくかった。第二点は従来の洋楽受容史研究が近代日本を対象としながらも、沖縄を視野に含めて論じることがなかった点である。

第2章では、洋楽受容の中心的機能を果たした沖縄県師範学校の音楽教員の実践に着目し、唱歌・音楽教育の展開をひもといた。ここでは明治期から昭和初期を通観することによって教育制度や政策面のみならず、教育実践にもとづいた三つの歴史的転換点、すなわち日露戦争の勃発(明治37年)、「沖縄音楽会(第二期)」の開催(明治44年)、郷土教育の実施(昭和5年)を指摘した。また、近代沖縄の洋楽受容における重要な人物が園山民平、宮良長包、山内盛彬の三人であることを指摘した。

第3章では、音楽観の導入と推移を整理しつつ、洋楽受容の進展のなかで伝統音楽がどのように位置づけられたのかを考察した。ここでは「日本的なもの」の思想形成に関する西原稔の年代区分を援用し、沖縄と日本本土との音楽観の推移を比較的に捉えた。沖縄では伊澤修二や神津専三郎らの音楽観を受容し、その根幹となった礼楽思想や社会進化論的な発想を拠りどころとしながら、琉球古典音楽を近代に復権させ、適合させるための議論がおこった。そして明治末には「琉球的なもの」という意識が形成され、さらに大正11年の田邊尚雄の来島を契機に「八重山的なもの」という意識がめばえた。その意識は大陸文化の影響の濃い「琉球的なもの」を他者とみなし、その一方で「日本(大和)的なもの」を自己の内部に見いだした。近代の成熟とともに沖縄人は自文化意識を覚醒させ、しかもその意識は単一のものではなく、沖縄内での地域差を生じた。

第4章では洋楽受容の理論的側面として、五線記譜法の普及にともなう伝統音楽の五線譜化について論じた。五線譜化の背景には、日本本土と沖縄との文化的影響関係をさぐる視点がそなわっていた。沖縄の伝統音楽の実態と五線記譜法の発想との間に、たとえ齟齬をきたす面があったとしても、宮良や山内は五線譜化を放棄する方向ではなく、むしろその方法にこだわり、駆使する態度を保持した。なぜなら伝統音楽の再生にとって、五線譜化という手段は、もはや避けることのできないものだったからである。

第5章では、近代日本に現出した「国楽」「調和楽」の創作理念や「新日本音楽」のムーブメントに着目しながら、沖縄での音楽創作と伝統性のかかわりを考察した。沖縄の伝統音楽を題材とした創作の嚆矢は、園山の調和楽作品だった。園山が琉球古典音楽を題材としたことに対して、後年の宮良や山内の創作では八重山民謡が題材とされる傾向にあり、そこには「八重山的なもの」という意識が具現されていた。しかも、宮良や山内の創作は田邊の作風からの影響が大きく、沖縄の伝統音楽を題材とした新日本音楽の創造として評価することができる。

第6章は、演奏と享受に関する章である。ここでは「官民一体型」「民間団体型」「学校教育型」という三つの視点で主催者と演奏会内容の相関性を分析的に捉えることによって、公開演奏会の確立と定着について論じた。明治期の「学校教育型」の演奏会では「国民教化」が強く意識されていたため、沖縄の伝統音楽の導入にも慎重だったが、その後の「琉球的なもの」「八重山的なもの」という自意識の開花にともなって、伝統音楽(琉球古典音楽、八重山民謡や琉球民謡)ならびに伝統音楽を題材とした創作民謡も導入された。その意味で公開演奏会は、沖縄人の自文化意識の発揚と収束の場として定着したといえる。

第7章における結論は、次のとおりである。日露戦争以降、近代沖縄人は洋楽を積極的に受容する態度に転じ、その態度は終局的に自己の内部の文化的基層の差異を照射した。明治末の二年間は洋楽受容のプロセスにおける地殻変動期に相当し、そこでは「直接的な摂取」から「創造」の段階へと、沖縄での洋楽受容が大きく進展した。洋楽からもたらされた発想法や思考法そして音感覚は、近代以降の沖縄人の行動様式を大きく規定したが、とはいえ近代沖縄人の意識は近世琉球の音楽性へと一層強く向けられた。みずからの伝統性を新しいかたちで提示し、そして近代社会に確固として位置づけるための手段として、近代沖縄人は洋楽を拠りどころとしたのだった。

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