沖縄県立芸術大学大学院芸術文化学研究科

Read Article

初期沖縄研究の様相

氏名(本籍)
齊藤 郁子さいとう いくこ(秋田県)
学位の種類
博士(芸術学)
学位記番号
論文博士1
学位授与日
平成19年3月16日
学位授与の条件
学位規定第4条の2
学位論文題目
初期沖縄研究の様相 
ダウンロード
論文要旨および審査結果の要旨
審査委員
  • 教授 波照間 永吉[主査]
  • 教授 蒲生 美津子
  • 教授 柳 悦州
  • 教授 高良 倉吉(琉球大学教授)
  • 教授 仲程 昌徳(琉球大学教授)
  • 論文要旨
  • 英文要旨(English)
  • コメント
  • 論文審査要旨

論文要旨

沖縄研究に携った沖縄出身の研究者については多くの論考があるが、外来の人物の研究は時代的には沖縄出身者に先行しているもののその跡付けは遅れているのが現状である。

本論文は、未だ部分的な解明にとどまっている琉球・沖縄研究の初期を担う重要な活動・研究を行いながら今まであまり取り上げられていない外来の人物の研究内容と、すでに良く知られた人物に対してはこれまで言及されていない面を考察することにより、初期沖縄研究の様相を明らかにすることを目的とする。それらの人々がどのような学問を修め、どのような方法論で「沖縄」という未知なる土地を見つめ研究したかを跡付けた。

第一章では、明治政府の内務省琉球藩出張所に勤務した河原田盛美の修めた学問と、彼の琉球勤務時代の活動を考察した。河原田はその本草学的知識を活かし、一八七六(明治九)年開催のフィラデルフィア万国博覧会出品のため依頼のあった琉球物品を収集・送付し、結果的に「日本領土としての“琉球”」イメージ確立に一役かったことを指摘した。

第二章では、沖縄・八重山の膨大な調査を行った田代安定を取り上げた。田代の残した史・資料群が様々な分野にわたるものであるのは、田代の調査が沖縄・八重山の全容を把握し支配するという政策的な内容であることと、その他に田代が若年の頃に修めた本草学の、その土地の風土、言語、習俗、伝承など、多岐に渡る事象に広く目配りをして薬剤となるものを研究する方法論が影響していることを指摘した。

第三章では、須藤利一による琉球国時代の伝統数学の調査研究と、数学の世界から当時の税徴収システムの解明を試みた点を取り上げた。須藤の研究は数学そのものにとどまらず、人頭税に関わる問題を照射する視点を伴っていたところに独自性があることを指摘した。

第四章では、岩崎卓爾の研究内容を再考し、岩崎の方法論、視野の広さは彼の本業であった気象学の方法論に求められることを指摘した。さらに、岩崎の研究がその後の世代の人々へ与えた影響も考察した。

第五章では、生物学者の依頼を受けて鳥獣採集を行った折居彪二郎を取り上げた。折居の資料は「採集者」による自然環境および動物に対する細やかな記録であるという点に独自性がある。これには当時すでに沖縄・奄美も環境破壊により動物の生息地が打撃を受けている様子や貴重な鳥類の密猟に憤る記述もあり、当時の動物と人間を記録する意義と問題点を考察した。

第六章では、沖縄県立中学の教師であった加藤三吾の研究を、著書『琉球乃研究』を中心に考察し、加藤の沖縄研究は沖縄を離れて以降は実質止まっていたことから、高い評価はされなかったと推測されることを論じた。だが、加藤は様々な分野を見渡し科学的な記述を目指す研究態度を持ち、あくまでも実証を重んじた史論で当時の沖縄の知識人と論争するなど、加藤の研究は画期的なものあったことを指摘した。

第七章では田島利三郎の沖縄研究の様相を考察した。『おもろさうし』の解読を目的に来沖した田島であるが、他県出身者であった彼にとって研究の基礎となるのが琉球語習得であった。そこで第一節では田島が残した言語資料から、『おもろさうし』解読のためにオモロ語の辞書とも言える『混効験集』の研究に力を注ぎ、その成果が伊波普猷の初期の研究にも影響を与えていたことを考察した。

第二節では、田島が筆写した「田島本おもろさうし」の中に見られる膨大な注記から、田島が「重複」するオモロについて詳細に比較していたこと、語の解釈については日本古語と沖縄古語との比較、類推をおこなうという、現代と同様の方法論をすでに用いていたことを指摘した。

各章の考察を経て、これら初期の研究者は、本草学や国学等の近世期の学問を基盤に近代教育を積み上げた方法論で研究対象にあたっていたことを明らかにした。とくに、本草学及び博物学、気象学などの自然科学の方法論を学んだ者は、その記述が科学的かつ実証的であり、さらに古記録にも相当の注意を払い、自然科学以外の領域も記録し言及するなど、近世期の学者にも見られた広い視野と柔軟性を引き継いでいたと指摘した。

また、田島利三郎の資料は伊波普猷へ譲られたが、琉球古語・日本古語に遡っての比較類推という田島の国学・国語学的方法論も伊波に影響を与え引き継がれている。文学研究の領域では初期の段階ですでに現在と同様の方法論がとられていたことも指摘した。

英文要旨

A New Look at Okinawan Studies in its Early Period

This thesis attempts to contribute to the understanding of the development of Okinawan Studies during its early period (1860s-1940s) by examining two under-explored realms of scholarship. It focuses on the research and lives of lesser known Japanese (non Okinawan) scholars whose important contribution to Okinawan studies have not received proper attention. It also focuses on important, but still overlooked, research of well known Japanese scholars.

In Chapter One, the research and life of Kawarada Moriharu, an official in the Ryukyuan han (domain) under the Ministry of Interior of the Meiji Government, are examined. It is shown that his involvement in the preparation for a Japanese exhibit at the Philadelphia International exhibition in 1876, including the collecting and sending of Ryukyuan artifacts, helped create an image of Ryukyu as a part of Japan.

In Chapter Two, the research and life of Tashiro Antei are discussed. It is agued that the broad range of his research topics and activities were oriented towards policy making and governing of Okinawa and Yaeyama. These were also influenced by his training in pharmacognosy (本草学).

In Chapter Three, the research of Sudo Riichi is examined. It is discussed that his research on the traditional mathematics of Ryukyu and his application of such knowledge to understanding of various aspects and issues of the head tax system of the Ryukyu kingdom were quite distinctive.

In Chapter Four, the research of Iawasaki Takuji is re-examined. It is pointed out that his broad spectrum of research perspectives and methods were attributed to his training in meteorology.

In Chapter Five, the research and life of Orii Hyojiro, who worked as a “collector” of wildlife species for scientists, are discussed. It is pointed out that his research on natural environment and wildlife species of Okinawa and Amami was characterized by his attention to detail.

In Chapter Six, the research and life of Kato Sango, a teacher at Okinawa Prefectural School, are examined. It is argued that his research did not receive proper credit because he discontinued research on Okinawa after leaving Okinawa. It is pointed out that his adherence to the holistic approach with emphasis on scientific description and his engagement in debates with Okinawan intellectuals were quite novel.

In Chapter Seven, the research of Tajima Risaburo is re-examined in light of the fact that he, as a non-Okinawan, had to acquire the Okinawan language in order to carry out research on the Omoro shoshi. It is shown that he made tremendous efforts to produce Konkoukenshu, which is regarded as “the dictionary of Omoro words” and the book had an important influence on Iha Fuyu. It is also argued that he engaged in detailed comparisons of “repeated” verses in the Omoro soshi and employed the method of comparative analogy between archaic Japanese and Okinawan words in understanding the Omoro soshi.

In conclusion, it is argued that the research of these scholars were built upon modern academic disciplines such as pharmacognosy (本草学) and national learning (国学). This was reflected in their scientific and positivistic descriptions used and their attitudes and willingness towards incorporating a wide range of data including historical records. It is also argued that the method of comparative analogy employed by Tajima Riaburo was inherited by Iha Fuyu and is similar to methods used at present in the field of literature studies.

琉球文学を専攻していた私は、修士課程まで指導を受けていた先生が定年退職され進学先を探していたところ、この沖縄県立芸術大学大学院に後期博士課程ができることを知り受験しました。3年在学し単位を取得した後、経済的な事情で学校をやめて働くことにしましたが、研究は少しずつですが継続してきました。その成果をまとめ学位論文として提出し、平成18年度に博士の学位を取得することができました。

博士課程の学生時代は、自分の専攻にとどまらず、様々な分野の先生方の授業を受講し、また仲間の学生と意見を交換し、視野を広げることができたと思います。自分の専門とする分野の視点や方法論もまた相対的に考え、その上で自らの研究を考察するという貴重な体験をすることができるのが、音楽・美術・工芸・文学・言語等々の他分野の研究室を擁する芸術文化学研究科の特長とも思われます。

今後も豊かな知の土壌で吸収したものを活かして研究を進めていきたいと考えております。

論文審査要旨

本論文は、沖縄研究の「初期」段階に活動した7人の研究者をとりあげ、その研究の実質と方法論を検討して、沖縄研究に果たした役割と方法論的特徴を明らかにしたものである。全体が8つの章で構成され、川原田盛美、田代安定、須藤利一、岩崎卓爾、折居彪次郎、加藤三吾、田島利三郎の7人を第1章から第7章までに順々に採り上げ論じている。本論文の意義は、これら「初期」沖縄研究者が伊波普猷や恩納村寛惇などの沖縄出身研究者の誕生を準備し、沖縄研究の基礎を確立したことを明確にしたこと。そして、これらの研究者が近世期の本草学や国学などの学問素養の上に近代教育による新知識を積み上げ、その視覚で沖縄を研究対象としてきたことをつぶさに証明したことである。

第1章では、「廃藩置県」前後の琉球に滞在した川原田盛美の活動を跡付け、その研究活動が本草学の知識を生かしたものであり、「日本領土としての“琉球”」イメージの確立に大きな影響を与えたことを明らかにした。第2章では沖縄・八重山を広範囲に調査し、膨大な調査資料を残した田代安定の足跡とその方法論を明らかにした。琉球の風土・言語・習俗・伝承にかかわる広範囲にわたる調査が、本草学の方法論と外国語の知識によるものであること。そしてその調査の背景には政治的な関心があったことを明らかにした。第3章では、須藤利一の研究をとりあげた。田代の沖縄の結縄文字研究を承けて沖縄の数学研究にあたった須藤の研究の特質は、数学分野の研究に止まらず、数学を必要とした琉球国における租税制度(人頭税)をも視野に入れたところにある、と指摘した。第4章では、石垣島測候所長として活動し、終生石垣島に居住して八重山の動植物と文化研究に従事した岩崎卓爾を採り上げた。岩崎の気象学学習時の内容を紹介し、その研究の基礎には気象学という自然科学の方法があることを明らかにした。第5章では、これまで沖縄研究を論ずる場面ではほとんど論じられることのなかった折居彪次郎をとりあげた。折居は鳥類研究者の依頼を受けて鳥類採集に従事した人物である。本論文ではその採集日記について論じた。そして、それが大正期の沖縄・奄美の社会・民俗を独自の視点で記録したものであり、当時の沖縄における自然と動物の状況、社会状況を伝える貴重な資料であることを明らかにした。また、この資料から折居の沖縄観・自然観を分析し、折居の中には自然と文化が深く相関わるものであるという視点が胚胎していたことを明らかにした。あわせて動物と人間を記録することの意義についても考察した。第6章では加藤三吾の研究について、その著『琉球乃研究』を中心に考察した。特に、加藤の研究が実証主義に基づくものであり、恩納村寛惇との「為朝渡来説」をめぐる論争にそれが顕著に現れていると指摘した。また加藤の研究が長く埋もれてしまった原因として柳田国男の評価が影響したとの見解を示した。第7章では田島利三郎の研究のうち、『おもろさうし』と琉球語研究の二つの分野について論述した。田島の研究が国学の研究方法を駆使したものであり、『おもろさうし』および琉球古典語研究の基礎を確立したものであること。「沖縄学の父」と称される伊波普猷の研究に大きく影響を与えたことなどを、膨大な量の作業を綿密に行い実証的に明らかにした。

これらの作業によって、「初期」沖縄研究が意識的に展開されたこと、方法的には、本草学や国学などの近世期の学問研究を基礎とする、科学性を有したものであることを明らかにした。このことは、その後の沖縄研究がこれらの研究者の業績を自然に受け継ぐ形で展開してきたことの歴史的必然性を考える上でも重要な指摘である。また、著者が現在の沖縄研究に求められるべき視点として学際性をとりあげたことは、これら如上の研究からして自然な結論であり、説得的である。このように本論文は、従来の人文科学系の沖縄研究がとりあげることの少なかった自然科学系の研究者を積極的にとりあげ、その研究の実体を明らかにし、それが後の沖縄研究———伊波普猷に代表される人文科学中心の「沖縄学」———に及ぼした影響を展望しようとしており、貴重である。沖縄研究の歴史の全体像を正確に描き出すためには、自然科学、人文科学の垣根を乗り越える視点が必要であるという指摘はもっともであり、その観点から本草学・数学史・気象学・鳥類研究などの諸学について懸命に学んだ跡は、各章の叙述にしっかりと反映している。その結果として上に述べたような成果を挙げたことは積極的に評価できる。

ただ、本論文においては、研究史の時代区分についての理論的な説明が不足していること、本論文でとりあげた自然科学研究と人文科学研究の理論的接合性あるいは有機的関連性の説明が説得的ではないこと、などが克服すべき問題として存在している。氏自身もその点については自覚し、記述しているが、なお十分に説得的ではない。また、第6・7章の分析と叙述の精細さとそれ以前の章の分析・叙述の間には相当な差があり問題である。今後その差を埋めるべく努力すべきである。さらに言うと、本論文でとりあげられた研究者以外の研究についての評価はどうであるか、そしてこれらの研究を含めた沖縄研究の全体像はどう描き出されるか、ということについても展望を持つべきである。

しかし、全体として、これまでなされることのなかった沖縄研究の「初期」に活躍した重要な研究者をとりあげ、その研究の総体と方法論について論じ、後の研究への影響を考察するというテーマに取り組み、上に見たような成果を挙げたことは評価に値する。よって、当学位論文審査委員会は、本論文を博士の学位にふさわしいものと判断する。

Return Top