沖縄県立芸術大学大学院芸術文化学研究科

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初期沖縄映画史の諸相

氏名(本籍)
世良 利和(京都府)
学位の種類
博士(芸術学)
学位記番号
論文博士5
学位授与日
平成28年3月18日
学位授与の条件
学位規定第4条の2
学位論文題目
初期沖縄映画史の諸相
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博士論文全体  論文要旨及び審査要旨
審査委員
  • 教授 波照間 永吉[主査]
  • 教授 久万田 晋
  • 教授 波平 八郎
  • 教授 大城 學(琉球大学)
  • 論文要旨
  • 英文要旨(English)
  • 論文審査要旨

論文要旨

本論考では、これまで研究対象とされていなかった明治・大正期の沖縄映画史を取り上げ、興行、受容、製作といった諸相を明らかにした。映画史の流れは全国一律ではなく、とりわけその初期において は地域差が大きい。加えて沖縄では地理的、歴史的、文化的背景から、本土とは異なる要素が指摘できる。

第 1 章では映画の伝来について検証した。沖縄での映画初上映については、岡山孤児院説などが流布 しているが、新聞資料で確認できる映画の初上映は、1902 年 3 月 27 日に那覇辻端道・上の芝居で行わ れた東洋活動写真会によるものだ。本土での初上映から約 5 年半後のことで、全国的にみれば時期はか なり遅い。それ以前には幻燈の上映が盛んに行われており、1900 年には幻燈に動きを加えた一種の「幻 灯芝居」や「のぞき眼鏡」の興行もあった。東洋活動写真会による映画初上映は地元紙で連日報じられ、 本土から遠く離れた沖縄における新たな娯楽、教育手段、メディアとして、大きな期待が寄せられたことをうかがわせている。

第 2 章では巡回上映の時代を概観した。東洋活動写真会以降も、沖縄には毎年のように本土から巡回 上映がやって来た。興行の形態、内容、目的は様々であり、一般興行だけでなく、慈善募金や布教活動 としての上映もあった。その中で特に岡山孤児院による慈善上映会が詳しく報じられ、強い印象を残し たため、後にこれを沖縄における初上映とする説が広まったと考えられる。また沖縄県教育会なども社 会教育の手段・余興として巡回上映を行っており、目的やスタイルの異なる各種の巡回上映を通じて、 映画は都市部から郡部、離島へと伝播した。こうした巡回上映では、しばしば沖縄の言葉による説明が 行われており、沖縄独自の映画受容として注目される。そして明治末から大正初めには那覇に拠点を置 く興行主も現れ、興行の長期化や重複、ガスから電燈への光源切り替えなど、映画常設時代の前夜とも呼べる状況が生まれている。

第 3 章では常設映画館の開業と連鎖劇の導入について論じた。沖縄初の映画館として開業したのは、 1913 年に芝居小屋を改装した香霞座パリー館だった。同館が短期間で廃業した後、1914 年には本格的 な映画館として帝国館が新築される。帝国館は沖縄における大衆娯楽の象徴であると同時に、西洋や本 土文化の窓口ともなった。一方 1916 年には、大正劇場で旗揚げした沖縄芝居の潮会が、実演と映画を組 み合わせた新派の連鎖劇を導入して人気を集め、那覇の興行界は映画、連鎖劇、沖縄芝居による三つ巴 の状況となる。新派の連鎖劇は一時的な流行に終わった折衷的な試みという評価が一般的だが、沖縄では本土のフィルムを使って沖縄の言葉で演じるスタイルで受容され、それが独自の郷土連鎖劇を生む土壌となった。

第 4 章では映画館の競合と変遷をたどるとともに、映画館が西洋音楽の伝播に果たした役割を検証し、映画に対する規制についても整理した。1917 年には中座でも連鎖劇が上演され始め、対する潮会は連鎖 劇に加えて、大活館という映画館を開業する。これにより映画も連鎖劇も競争の時代を迎えたが、やが て大活館は廃業し、新派の連鎖劇も衰退する。その後映画は帝国館と平和館、あるいは平和館と新天地 による二館の競合時代が続く。このサイレント時代の映画興行においては、弁士の説明だけでなく楽隊 による演奏も、作品受容に大きな役割を果たした。映画館が一般大衆の洋楽受容の場となっていた点は、 沖縄でも本土と同様であった。また流行歌も小唄映画の上映などを通じて人々の間に伝播したと考えられる。その一方で、映画が娯楽の中心となり、次第に社会的影響力を増したことで法的な取締りが必要 とされ、学校現場でも観覧制限が実施された。そして沖縄県で独自に行なわれていた映画検閲は、1925 年から内務省によって全国的に統一されている。

第 5 章では、本土の映画における沖縄表象の出発点と沖縄独自の映画製作の始まりを明らかにした。 本土の映画が沖縄を本格的に登場させたのは、菊池幽芳原作の『悲劇百合子 前編』(1913)が最初だ。 その中で沖縄は「癒し」あるいは「自己実現」の場所として描かれていたと考えられる。またこの映画 が沖縄で上映された際には、衣装風俗をめぐって違和感が表明された。本土にとっての「癒し」と沖縄 にとっての「違和感」という図式は、現代の沖縄にも共通している。一方、沖縄独自の映画製作は、沖 縄芝居の渡嘉敷守礼が首里城付近を撮影させた郷土連鎖劇から始まった。そして 1923 年から 24 年頃に は、沖縄芝居の劇団が競うようにして連鎖劇を製作している。これら初期の作品群はフィルムも資料も 残されていないが、国家による映画検閲の記録の中にかろうじてその痕跡が見出された。

初期沖縄映画史の大半は本土からの影響に覆われている。しかし興行スタイルや作品の受容、あるい は表現への欲求において、本土とは異なる独自の歴史を垣間見ることができる。

英文要旨

A Study on the History of Early Okinawan Cinema:The Exhibition, Reception and Production of the Movies in the Meiji and Taisho Eras

Up until now the history of Japanese movies has been described by centering solely on the films of the major movie companies of Tokyo and Kyoto. However, regional differences can be seen in the exhibition, reception and production of the films. The history of Japanese movies is not necessarily a single stream. A typical example of this is the history of Okinawan movies, which I have worked on for years. This thesis deals primarily with this subject in regards to the Meiji and Taisho eras, because regional differences of movie history are especially great in their initial stages.

It was on March 27, 1902, that the first movie was shown in Okinawa. It was about five and a half years after the first film showing in mainland Japan. Afterward various road shows came to Okinawa, and on these occasions silent films were sometimes narrated in the Okinawan dialect and not in the standard Japanese. In 1913, a theater called Kasumi-za was redecorated into Pari-kan, the first movie theater in Okinawa. It was started 10 years after the first Japanese movie theater Denki-kan opened in Asakusa, Tokyo. Pari-kan went out of business shortly after its start. Then in 1914, Teikoku-kan was newly built as a full-fledged movie theater, and movies gained popularity among the citizens of Okinawa as a new form of entertainment.

For Okinawan people movies were not only an entertainment, but also an opportunity to encounter the cultures of mainland Japan and Western countries. Initially, most of the katsudo-benshi and musicians were invited from mainland Japan. Therefore, these movies played an important role in allowing Okinawans to receive the language and customs of mainland Japan and Western music. In 1916, rensa-geki (a kind of show in which a film on the screen and the performance by actors on stage are alternately given) was introduced from mainland Japan. For this new form of performance, Okinawan actors acted with their local dialect on stage in conjunction with the films made in mainland Japan.

“Higeki Yuriko Zenpen(Tragedy: Yuriko Part I)”, one of the earliest Japanese movies which was set in Okinawa, was made in 1913. In this film Okinawa is described as a place of healing, which also happens to be a current image of Okinawa. On the other hand, the production of narrative film began in Okinawa in the middle of the Taisho era as rensa-geki set in Okinawa, many of which were made between 1923 and 1924. All these early films were lost, but we do have an idea of what they were like from film censorship records of the state.

The history of early Okinawan movies is a little different from that of mainland Japan. Unfortunately, however, much of these old films and their related documents have been scattered or lost. Therefore, until now the early history of Okinawan movies have been partly unclear and confused. Through this thesis, I have carried out a thorough research into newspaper articles and censored records in order to bring the facts to light, to correct false information, and to clarify some unique elements of the early Okinawan movie history and their regional and cultural backgrounds.

論文審査要旨

 本論文は、1879年、「琉球処分」によって始まった近代沖縄における大衆娯楽としての映画の歴史、特に明治・大正時代をその「初期」と設定し、その時期の沖縄映画史の事実関係を明らかにしようとするものである。近代沖縄の映画史についての本格的な研究の嚆矢と位置づけられる。

本論文は全5章からなる。第1章「沖縄への映画の伝来」、第2章「巡回上映の時代」、第3章「映画常設興業の開始」、第4章「那覇における映画館の変遷」、第5章「沖縄映画の登場」という章立てで、冒頭に「はじめに」、末尾に「結び―初期沖縄映画史とは何か」が置かれている。考察の対象とされたのは「沖縄への映画伝来の始まり」、「巡回上映時代の様相」、「常設館時代の映画受容と連鎖劇の登場」、「複数の映画館による競争と映画館における音楽受容」、「映画に対する規制」、「沖縄を描いた本土映画の登場と沖縄における劇映画制作の胎動」などである。

第1章では、沖縄への映画伝来をめぐる諸説をあげて、新聞資料や当時の日本本土における客観状況を示してその当否について論述している。映画の伝来以前として「幻灯の伝来」や興行、そして「東洋活動写真会の来沖」などをあげてこの問題に迫っている。著者が示したその時期は、1902年3月23日の『琉球新報』の記事・広告によるものであった。

第2章では「巡回上映の時代」が取り扱われる。第1節で「様々な巡回上映組織の活動」のあり方とその足跡がしめされ、第2節では「岡山孤児院来沖」とその活動、第3節では「常設興業前夜」の状況が「明治座の映画長期興行」を軸に述べられている。

第3章は「映画常設興業の開始」と題して、第1節「香霞座パリー館と帝国館」、第2節「帝国館の黄金時代」、第3節「大正劇場の開設と連鎖劇の人気」の各節で、映画常設興業が本格的になったこと、中でも専門的な映画館として帝国館が登場し人気を博したこと、そして、1916年、伝統的娯楽である沖縄芝居が映画を取り入れ「連鎖劇」を始めていくことを述べている。

第4章では「那覇における映画館の変遷」をたどる。第1節「映画館の競合時代の始まり」で帝国館と大活館の時代から平和館の参入、そして帝国館の没落、新天地の参入と平和館と新天地の隆盛時代を描く。第2節「映画の役割と社会的規制」では、「映画館と音楽」「映画論壇の可能性」「映画に対する法的規制」「教育上の観覧規制」などの諸面から、大衆の娯楽の地位を得た映画のもたらしたものと、その映画を取り締まりの対象としていく権力の動きを明らかにしている。

第5章は「沖縄映画の登場」と題して、第1節「本土映画の中の沖縄」で、1913(大正2)年に公開された「悲劇百合子 前編」に早くも「癒しの島」としての沖縄が登場していることを指摘している。なおこの指摘は、沖縄が日本の劇映画に登場するのは1930年代に入ってから、とされてきた通説を改める重要なものである。第2節「沖縄独自の連鎖劇」は、渡嘉敷守礼の「郷土連鎖劇」の動きからその隆盛までを描きだす。この記述は『検閲時報』によって得られたもので、沖縄映画史を補うものとして貴重である。

以上のように本論文は、「初期沖縄映画史」を描き出すことに成功している。今後「近代沖縄映画史」という新しい研究領域を開くものとして評価できるものである。それは、代沖縄で発行された新聞記事および広告を丹念に渉猟するとともに、沖縄芝居役者の回想録や日本映画研究の諸文献、さらには『検閲時報』などの特定領域の文献にまで調査の手をのばして研究を進めた結果である。これらの調査の結果として、沖縄映画史の前史として「幻灯会」や日本本土から来る興業物、そして、近代沖縄の商業演劇も視野に取り込んで論文を構成しており、説得力のある展開となっている。また、第4章第2節において、これまでほとんど研究されてこなかった大正期沖縄の映画上映における音楽伴奏の様相について明らかにしたことは画期的な研究成果である。今後、大衆音楽研究の領域とも歩調を合わせて研究が進展することが期待される。また、現代の沖縄文化を巡って、日本本土の期待する「癒しの島」イメージと沖縄側が感じる「違和感」の間の齟齬の構図は、すでに100年も前に制作された「悲劇百合子 前編」の中に胚胎していたという指摘は、現代沖縄文化の研究に対しても、有効な指摘であろう。

上記のように本論文は大きな成果を示すものであるが、いくつかの改善点もある。まず、「初期沖縄映画史」を他地域のそれと比較して論ずるという視点の必要性である。この視点によって、沖縄映画史がもつ日本映画史における共通性や特殊性がより明確になるだろう。また、取り上げる映画を興行的な映画と教育的・国策的映画に分けて論ずる姿勢も必要だろう。前者については大衆娯楽文化全体の中で論じる立場であり、後者は国家による教育と大衆の娯楽・文化の誘導・管理という問題につながるであろう。上記の第4章第2節の評価と関わることであるが、当時の日本本土の映画上映では一般的であった「和洋楽」が沖縄でどれほど違和感なく上演されたのかなど、沖縄独自の状況の解釈としても課題が残っている。また「小唄映画」上映において、沖縄の劇場で実際に歌い手が舞台に立って歌ったのかという問題が不明なところは残念である。また、本論文で取り上げている事項等を配列した「初期沖縄映画史年表」を作成して読者の便を図って欲しかった。

以上のような若干の課題はありながらも、全体として、「初期沖縄映画史」の実像の解明に成功していることを評価する。また、“近代沖縄映画史”研究の端緒を開くものとして評価できるものである。今後のこの領域の研究に貢献することのできる論文であり、博士の学位を授与するに相応しいものと判断する。

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