論文要旨
本研究は、日本が近代国家としての体制を確立するため、自国の「古代」を創出したことを、美術史の視点から検証したものである。特に重要な古代の歴史的人物として、神武天皇・聖徳太子・光明皇后に注目し、テキストとビジュアルイメージの検証を通じて、近代における図像の形成と展開を分析した。
第1章「近代における「古代」のイメージ」では、古代の表象形成の背景に注目し、第1節にて、東京帝室博物館の活動及び岡倉天心の言説を分析して、1900年(明治33)以降、博物館は展覧会や図録の出版を通じて、画家たちに具体的な古代のイメージを発信する場となったこと、東京美術学校の日本美術史講義において、天心が天平時代に最盛期を迎えたとする美術史観を発信していたことなどを論じた。第2節では、日本考古学者の古代に関する言説、第3節では文学における古代に関する言説に整理し、東京帝室博物館に勤務していた高橋健自や後藤守一が唱えた考古学史が一般に広まったこと、『万葉集』の受容を通じて、日中戦争開戦後から出征兵士を防人に重ねる状況が形成されたことなどを指摘した。第4節では、美術作品に描かれた古代の埴輪・天平時代・防人の図像を分析した。そして埴輪が日本人の古典として評価されていくなかで、伸び行く日本や大東亜建設の象徴として埴輪の造形表現を参照した作品が描かれていたこと、1900年(明治33)以降、天平時代の女性像が正倉院御物とともに多く描かれるようになったこと、時局を踏まえて、古代の武人像である防人を主題とした作品が増加したことを明らかにした。
第2章「近代における神武天皇の表象」では、神武天皇の表象について分析した。第1節では、歴史学における神武天皇の研究史を整理し、神武天皇の東征や詔勅に関する出版物が1934年(昭和9)から増加したこと、詔勅にみる「八紘一宇」の精神が高く評価されるようになったことを指摘し、第2節では、近代の神武天皇観に大きな影響を与えた日蓮主義者である田中智学の言説を検証し、日清・日露戦争後に智学が唱えた「八紘一宇」の思想と神武天皇が結びつき、昭和時代において世界を道徳的に統一する日本の理想像となったことを論じた。第3節では、近代に描かれた神武天皇像の特徴を考察し、第4節では、田中智学と交流のあった竹内久一の《神武天皇立像》の造形表現を分析した。そして、神武天皇の髪型がみずらに変化し、考古遺物が描き込まれるようになったこと、竹内久一の作品が神武天皇像のカノンとなったこと、台座の「日本地図」の表現を智学が「両半球」と誤解したことを論じた。
第3章「近代における聖徳太子の表象」では、先行研究を整理しながら、近代の聖徳太子像の特徴と展開を分析した。第1節では、近代の聖徳太子伝に注目し、第2節では、聖徳太子顕彰団体である上宮教会・聖徳太子一千三百年御忌奉賛会・聖徳太子奉讃会の活動を分析した。そして1923年(大正12)に出版された黒板勝美の『聖徳太子御伝』によって、聖徳太子が「国体の権化」として位置づけられたこと、1921年(大正10)4月の聖徳太子一千三百年御忌法要を契機として、太子の規範化が進んだことを指摘した。第3節では、美術作品にみる聖徳太子像を分析し、一般的な太子像として《聖徳太子二王子像》が受容されたこと、主題としては摂政太子像・勝鬘経講讃図・入定図・黒駒図が描かれるようになったこと、堂本印象の聖徳太子三部作や町田曲江の《東天鴻基》の図像表現の特徴などを明らかにし、第4節では、四天王寺の四箇院建立や薬猟、片岡山飢人説話を根拠に、太子の慈悲のイメージが描かれるようになったことを論じた。
第4章「近代における光明皇后の表象」では、光明皇后の表象について考察した。第1節では、天皇制慈恵主義の観点から、皇室と社会事業の関係や1887年(明治20)4月26日に下賜した令旨、救療史料展覧会に陳列された史料などを分析し、国民を慈しむ慈愛の象徴として光明皇后が位置づけられていく過程を明らかにし、第2節では、美術作品に描かれた光明皇后像を取り上げ、主題として祈祷図や施浴図が描かれるようになったことを指摘した。第3節では、中澤弘光による1909年(明治42)の《おもひで》や 1919年(大正8)の《光明》の図像を分析し、中澤が光明皇后の伝説を参照して、十一面観音像の姿をした光明皇后を描いた可能性が高いことを論じた。
本論の重要な成果として、近代において、神武天皇像・聖徳太子像・光明皇后像などの「古代」表象が国家意識の形成と深く結びついており、美術作品の分析を通じて、その内実を具体的に示した点が挙げられる。私の研究は、近代の作家が自国の古代をどのように捉えていたのかを分析するうえで、有効な視点を提供するものとなるだろう。
英文要旨
Representation of “Classical Antiquity” in Japanese Modern Art: Focusing on the Images of Emperor Jinmu, Prince Shōtoku, and Empress Kōmyō
This study examines Japan’s creation of its own “classical antiquity” tradition for establishing a modern nation, from the viewpoint of art history. Focusing on Emperor Jinmu, Prince Shōtoku, and Empress Kōmyō as the most significant figures that represent “classical antiquity”, this study investigates the formation and development of iconography between 1868 and 1945, by examining visual images of and texts written about these figures.
Chapter 1 studies the background of the formation of classical antiquity representations in the following four aspects. Section 1 investigates narratives on Japanese art history, especially the ones by Tenshin Okakura, and points out that, after 1900, the Tokyo Imperial Museum provided painters with concrete images of classical antiquity through exhibitions and publications of exhibition catalogs. Section 2 reviews the studies by Japanese archeologists who worked at the Tokyo Imperial Museum and shows that their views on archeological history permeated Japanese intellectual thought in the early twentieth century. Section 3 discusses the remarks on antiquity in literature such as Manyōshū and its adaptation in modern times. Section 4 analyzes the images of ancient terra cotta figurines, those of subjects representing the Tempyō Period, as well as warrior figures that are all depicted in works of art, and discusses the iconographic features of such artworks.
Chapter 2 investigates the images of Emperor Jinmu. Section 1 summarizes the past research on Emperor Jinmu in historiography and points out that the number of publications on his eastern expedition and his imperial edicts increased, from 1934 on, and the idea of “Hakkouichiu (all eight corners of the world under one roof; the universal brotherhood)” of the Imperial edicts came to be honored highly. Section 2 examines the views of Chigaku Tanaka, a Nichirenist, whose idea of “Hakkouichiu” combined with Jinmu became the ideal image of Japan that was to morally unify the world in the Shōwa Era. Section 3 discusses the features of modern depictions of Emperor Jinmu. Section 4 analyzes figurative expressions of Emperor Jinmu by Hisakazu Takenouchi, a sculptor who had a close relationship with Chigaku Tanaka.
Chapter 3 studies the images of Prince Shōtoku. Section 1 focuses on modern biographies of him. Section 2 then analyses the activities of organizations honoring Prince Shōtoku. Section 3 investigates the images of Prince Shōtoku in artworks. Since the Meiji Era, artists often depicted his image as a “merciful” figure in paintings. Section 4 discusses how the image of the prince’s mercy came to be depicted based on the construction of four sub-temple institutions, medicine collections, and the Kataokayama legend.
Chapter 4 discusses the images Empress Kōmyō. Section 1 analyzes images of the Empress, from the perspective of imperial compassionism. Section 2 examines artworks depicting the Empress. Section 3 investigates the iconography of Reminiscences (1909) and Kōmyō (1919), by Hiromitsu Nakazawa, pointing out that it is highly likely that he depicted Empress Kōmyō in the form of an Eleven-headed Kannon statue.
Significant outcomes of this dissertation show the deep connection between the representations of classical antiquity, in the images of Emperor Jinmu, Prince Shōtoku, and Empress Kōmyō, and the formation of national consciousness in modern times and clarify the details, through the thorough analysis of various artworks.
論文審査結果
本論文は、日本近代において自国の歴史を創る際、理想としての「古代」が設定され、古代の人物、特に神武天皇、聖徳太子、光明皇后が政治的シンボルとなっていく過程や背景、また美術作品に表されたこれらの人物のイメージを明らかにしようとする論考である。
第1章においては、日本美術史の「古代」が岡倉天心による東京美術学校での講義で位置づけられ、『稿本日本帝国美術略史』の刊行によって定着したことを示し、また「古代」を提示する視覚装置としての東京帝室博物館について、さらに文学や考古学の動向、美術作品の題材となった古代的モチーフが次章以降の前置きとして論じられている。
第2章では、神武天皇像の形成と造形的特徴について論述している。まず歴史学の研究史から敵を征伐して建国した天皇という神武天皇観が近代に出来上がったことを述べ、さらに日蓮主義を唱えた田中智学による「八紘一宇」の思想と神武天皇の関連性を踏まえて、田中智学から大きな影響を受けた竹内久一による《神武天皇立像》を詳しく分析して新知見を提示した。
第3章では、近代に編纂された聖徳太子の伝記や顕彰団体の活動から近世期とは異なる太子観が構築されたことを論述し、「勝鬘経講讃図」「太子入定図」「黒駒図」「三経義疏」「片岡山飢人図」といった主題で描かれた作品から近代的で多岐にわたる聖徳太子イメージを読み取った。特に上宮教会や聖徳太子奉賛会などの社会事業を裏付ける「片岡山飢人図」の慈悲イメージは、明治時代以降に顕著となった聖徳太子のイメージであることを明らかにした。
第4章においては、近代の皇室が社会事業を熱心に行う過程で、光明皇后が社会事業の先駆者としてのイメージを持たされ、慈愛の象徴となる経緯を詳細に論じた。光明皇后を描いた「施浴図」「祈祷図」を分析し、さらに中澤弘光の《おもひで》及び《光明》を通して、皇后と観世音菩薩とのイメージの結びつきを解明した。
いずれの章にも多分野に亘る膨大な史資料が用いられ、多量の情報を収集してそれらを分析する能力の高さが窺える。一方で、参照する文献を限定している箇所や先行研究と持論との境界が不明瞭な論述方法についても、審査委員から指摘があった。
しかし、本論文は広範で精緻な調査を行い、美術史にとどまらない多角的な視点から古代表象としての神武天皇、聖徳太子、光明皇后のイメージを論じて新知見を導き出しており、日本近代の歴史画研究に寄与する可能性を持っていると評価できる。
最終試験結果
学位申請者に対する口述試験(最終試験)は、令和5年7月9日(午後1時30分〜午後3時10分)に実施した。提出論文の内容及び関連する事柄について質疑応答を行った結果、ほぼ全般にわたって的確な返答が得られ、実力が確認できた。
総合判定
本審査委員会は審査にあたり、「沖縄県立芸術大学大学院芸術文化学研究科(課程博士)博士論文等審査基準」に従って形式的要件を確認し、評価基準をもとに評価を行った。形式的要件は十分に満たしていると判断した。成績については、100点満点中85点以上を合格とし、合議の結果、論文及び最終試験ともに合格点を超える成績となったため、総合判定は合格とした。