沖縄県立芸術大学大学院芸術文化学研究科

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「御城舞台の構造と変遷に関する研究」

氏名(本籍)
茂木 仁史
もぎ ひとし
(東京都)
学位の種類
博士(芸術学)
学位記番号
博24
学位授与日
令和4年3月18日
学位授与の条件
学位規定第4条の2
学位論文題目
御城舞台の構造と変遷に関する研究
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博士論文全体  論文要旨および論文審査要旨
審査委員
  • 教授 久万田 晋[主査]
  • 教授 森 達也
  • 准教授 鈴木 耕太
  • 准教授 麻生 伸一
  • 教授 金城 厚(東京音楽大学)
  • 論文要旨
  • 英文要旨(English)
  • [/tab]論文審査要旨

論文要旨

琉球国は明清中国の朝貢・冊封体制のなかにあり、15世紀から19世紀にかけて歴代の琉球国王は明清中国の皇帝から冊封を受けていた。冊封とは、中国皇帝の勅書により封爵を授かることで、琉球国においては、王位継承者が承認されて任命を受けることを指す。冊封のために来訪する皇帝の勅使(冊封使)は半年ほど琉球に滞在し、その間、琉球側は、中秋宴や重陽宴と言った7回の王府主催の宴(いわゆる「七宴」)を催して彼らを接遇した。

1719年に渡来した冊封使のために催された仲秋宴では、首里城の御庭に「舞台」が設置された。これより前に舞台が作られたという記録は見つかっておらず、のちに「御城舞台」と呼ばれるその舞台は、最後となる1866年の冊封使来訪まで設置され続けた。「御城舞台」を中心に供された歌や躍り、音楽劇である「組躍」は、現在「琉球芸能」と呼ばれ沖縄を代表する芸能となっている。なお、本研究で述べる「御城舞台」とは冊封使の渡来時にのみ首里城の御庭に作られた舞台を指すものとする。

およそ芸能の帰属する場所や舞台が独自の様式や環境を備えている場合、それは芸能の本質と無縁ではない。雅楽、能、歌舞伎など日本の伝統芸能は、独自の様式を備えた専用舞台で上演される。専用舞台は芸能の成長に即して形成され、変化しながら現代に至っている。舞台の構造や形式は各芸能の様式となり、逆にその空間の特性によって、作品や演技・演出が規定されていくため、芸能空間の探求は芸能自体の理解に通じるのである。本研究で「御城舞台」をテーマとしたのは以上の背景がある。

さて、「御城舞台」は、1719年の冊封使来琉時に首里城御庭に設置された舞台である。その後、構造的変化を遂げながらも最後の御冠船となった1866年まで王府時代の晴れ舞台であり続けた。原点となった1719年から1866年までの「御城舞台」の舞台構造の変遷とその背景、舞台構造の変化に伴う芸能の変遷を解明することが、本研究の目的である。

本論文では、全体を2部に分けた。第一部は図像学的アプローチによる「御城舞台」分析である。現在「御城舞台」の絵図・図面は全部で5枚確認される。第一部ではまず、これまで作成年代が確定していない絵図・図面を含めすべての絵図・図面の全体像を検証し年代特定と内容を分析した。つぎに絵図・図面を解析し、御城舞台の特徴や舞台の使い方と変遷などを解析した。また、各絵図の描かれた年代による変化に着目し、芸能がどのように変遷したかを検討した。なお、「御城舞台」について、これまでは最後に作られた1866年の形式が主に研究されてきたが、首里城の舞台がはじめて記録された1719年から解析をした点に本研究の意義がある。

第一部で得られた成果をふまえて、第二部では文献史料を基に御城舞台に関わる諸相を分析した。舞台は正方形で背後に出演者が出入りする道(橋掛り)が付けられ、その先に楽屋が設置されていた。1719年と1866年の舞台を図面におこして寸法も割り出して比較すると「御城舞台」は、舞台と楽屋および舞台と楽屋をつなげる道(橋掛り)という構造を備えていた点に変化はなかったことが分かった。これらのことから、舞台・楽屋・道(橋掛り)を備えた構造が「御城舞台」の基底となり、現在の琉球芸能につながる様式が育まれた要因であると結論づけた。

しかし「御城舞台」は、幕の登場と登退場口の増加により変化もした。舞台が設置された初期には舞台上で演奏していた演奏者が、1800年ごろから幕のなかに入ったことで舞台は役者や舞踊家だけの場所となった。また、役者や舞踊家は、幕の両端を出入り口に用いることで、道(橋掛り)を歩かずとも済むことになり、登退場の制約から自由になった。これにより、演技・演出の幅を広げていくことにつながったものと思われる。幕の登場と登退場口の増加は一見様式の破壊とも見えるが、橋掛りは残されたことで、御城舞台は古来の格式を備えたまま新しい芸能の「組踊」に順応し、他に類例のない独特の構造を形成したとも言えよう。

ほかにも、王府主導により稽古場が設置されたことも芸能に変化を与えた。稽古場の新設は、稽古の場所と時間を担保できることにつながるため、その分、技芸の向上や短期間とはいえ専門家の育成に資したものと考えられる。また、稽古場では、国王や王族らによる見分(試演会)が行われており、これによってさらに技芸が磨かれたのである。

以上のことから、舞台の構造は「御城舞台」における芸能の展開と相互に影響し合う不可分の関係であり、1719年に生まれた組踊が時代とともに変化していく過程において舞台も適応し、独特な構造を形成したことが分かった。このことが本研究の成果である。

英文要旨

The Structure of the Ugushiku Stage and the Changes it has Undergone

The Ryukyu Kingdom formed part of the tributary system of Imperial China. Successive Ryukyu kings received sakuhou from the emperors of the Ming and Qing dynasties. The emperor’s messenger, known as the sakuhou messenger, who attended the sakuhou ritual, stayed in Ryukyu for approximately half a year. During this time, the Ryukyu Kingdom held seven royal banquets, which included the Mid-Autumn and Double Ninth Festival feasts.

When the envoy came to Japan in 1719, a stage was set up in the garden of Shuri Castle during the Mid-Autumn Festival feast. The stage, which was subsequently referred to as the Ugushiku Stage, continued to be erected there until 1866, when the last envoy visited Ryukyu.

If a place or a stage that caters to performing arts has a style or an environment that is unique to it, it generally has some relevance to the essence of the particular performing arts. The structure and form of a stage generally develop into the style of the art performed on it. Conversely, the work, acting, and direction are determined by the characteristics of the space. Consequently, the examination of the performing space leads to an understanding of the art itself. Therefore, the Ugushiku Stage was chosen as the subject of this study.

This study aimed to elucidate the changes in the structure of the Ugushiku Stage from 1719 to 1866 as well as the background and changes in the performing arts that resulted from the said structural changes.

This paper is divided into two sections. In the first section, an iconographic approach was employed to analyze the Ugushiku Stage. Currently, a total of five drawings and plans for the stage have been confirmed. The drawings and plans, including those wherein production dates have not been determined, are examined and the dates and contents are analyzed. Subsequently, the drawings and plans as well as the characteristics of the stage, how it was used, and the changes it has undergone are analyzed. Furthermore, the changes made to the drawings in relation to when they were built, as well as the changes the arts have experienced, are examined.

Based on the results of the first section, historical documents were employed to analyze various aspects of the stage in the second section. By examining plans and calculating measurements, in comparison with the stages of 1719 and 1866, the results revealed that there was no change in that the stage had the structure of a performing area, a dressing room, and a road (bridge) that connected the performing area and the dressing room. It can be concluded that the Ugushiku Stage comprised a performing area, dressing room, and road (bridge). These factors produced the style leading to the current Ryukyu Performing Arts.

The Ugushiku Stage has also changed through the introduction of a curtain and an increase in the number of entrances and exits. Initially, those who played music performed on stage. However, since 1800, they played behind a curtain, with the stage being only for actors and dancers. The introduction of a curtain and the increase in the number of entrances and exits seemed to destroy the style at first. However, it can be argued that, as the bridge remained, while the Ugushiku Stage has adapted to Kumi Odori, it has retained its ancient style and formed a unique structure that cannot be found anywhere else.

The above findings revealed that the structure of the Ugushiku Stage has an inseparable relationship with the development of the performing arts, with one influencing the other. Furthermore, although Kumi Odori was started in 1719, it has undergone changes, with the stage further changing as well, causing a unique structure to be formed.

論文審査結果

茂木仁史氏の研究は、近世琉球時代の冊封記録等から、冠船芸能が上演された舞台構造の実像を解明することに主眼を置くと共に、以後の琉球芸能の変遷に関わる重要な諸点を論じたものである。そのために近世琉球の冊封時に首里城御庭に仮設された舞台を「御城舞台」と定義し、諸宴における舞台構造の変遷とそれに関連する諸問題を追求するものである。

論文全体は二部からなる。第一部は「御城舞台」の図像学的研究と題している。

第1章は『中山伝信録』における1719年冊封時の御城舞台を分析している。これについて、茂木氏が見出した『冊封全図』と比較対照することで御城舞台の構造について考察している。第2章はこれまで制作年代が確定していなかった「城元仲秋宴之図」について、屋根、奉神門の構造、花火図の各局面から検討することで制作年代を1838年と確定している。さらにそこから解読を進めて幕口の掛綵と屋根について考察を進めている。
第3章は1866年冊封時の御城舞台に関する諸図面の検討によって、御城舞台の構造を解明している。

第二部は「御城舞台」の諸相と題して、御城舞台と関わる諸問題を考察している。

第4章は戌年『躍方日記』における稽古と稽古場について考察している。また稽古場と本番(御城舞台)に使用される幕について考察している。
第5章は首里城の御城舞台以外で冠船芸能が上演された場(天使館、戌年躍奉行宅舞台、寅年躍奉行宅舞台、王子・摂政宅)について考察している。
第6章は戌年(1838)における冊封諸宴以外の上演機会(御膳進上、田舎人躍拝見、大和人衆御招請、御茶屋躍上覧)について考察している。
第7章は冠船芸能(特に組踊)に使用された道具と設備等について考察している。特に筵についての考察から、「せんほこり」の場所について新たな知見を披露している。
第8章は冠船芸能における観客と観客のあり方について各冊封時の状況について考察している。
第9章は再度御城舞台の構造に立ち戻り、特に舞台床の高さについて考察している。

最終章は「まとめ」として、これまでの研究成果を一括している。

こうした論文の構成と内容について、審査委員からは次のような評価があった。

(1)序章における研究目的の叙述がたいへん明快で、それに沿った先行研究の批判的検討も適切であったこと。(2)先行研究で十分に検討されてこなかった舞台の構造に注目し、従来の研究を批判的に検証し、組踊をはじめとする琉球芸能の思想的背景や歴史的展開を丁寧に解明したこと。(3)図像資料および関連資料を用いて年代比定など新たな学問的知見を提出したこと。(4)『中山伝信録』出版は徐葆光が康熙帝に献上した冊封報告書(『冊封全図』と『琉球全図』)に基づくことを明確にしたこと。(5)尚家文書など従来あまり使われてこなかった諸資料を網羅的に用いることで随所に斬新な見解を提示したこと。(6)「幕」に関する論考は前例のない斬新な研究視点と成果であったこと。以上のような優れた学術的成果を有している点が全ての委員から高く評価された。

その一方で、舞台構造の変遷からみた組踊論、舞台の儀礼性・祝祭性等、より普遍的な視点をさらに深掘りすべきではないか。また「城元仲秋宴之図」に描かれた宝珠にまつわる宗教性・象徴性の問題はさらに展開できるのではないか。こうした点が各審査委員から指摘された。

以上の評価を総合して、本論文は博士の学位に相応しい優れた論文であると判定した。

最終試験結果

最終試験(口述)(日時:1月14日 18:00~19:30 場所:一般教育棟3階大講義室)
申請者に対して提出論文についての質疑応答を行い、論文、研究演奏について総合的な理解力があると判定した。

〈総合判定〉
学位審査委員会は、審査にあたり芸術文化学研究科「博士論文等審査基準」に基づいて、申請者より提出された論文及び研究演奏が要件を満たしているかを審査した。
論文、最終試験(口述)の成績素点は各100点満点の85点以上を合格とすることとした。
次に博士論文の評価基準に従って審査し基準を満たしているか判定した。論文は、博士(芸術学)の学位にふさわしい優れた成果であると判定した。

論文審査後に行われた最終試験(口述)では質疑応答の中で、申請者の研究に対する総合的な理解力、実力があると判定した。特に質疑応答に関して、本論文の研究方法や根拠とした史料の史料批判、本研究の成果の琉球芸能研究全体のなかの位置づけなどの質問があったが、いずれの質問についても的確に応答したことは高く評価できる。

口述試験終了後審査会議を開き、各委員から提出された素点を集計した結果、論文、最終試験(口述)の各成績が合格点を満たしていることから学位審査委員会では、博士の学位を授与するにふさわしい質と量を備え、基準を満たしていることから総合判定を「合格」とする。

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