論文要旨
16世紀後半から20世紀初頭にかけて、中日欧の間で、世界的な陶磁文化・技術交流が行われ、貿易流通及び芸術文化の影響が複雑に展開していた。本研究は、この時期の中日欧における陶磁貿易の流通及び文化・技術受容の実像を明らかにすることを目的とする。また、日本の鎖国と清朝の海禁の期間に、アジアと欧州と貿易で繋いだオランダ東インド会社がどのような役割を果たしたかという課題にも焦点を当てている。
日中文化の交流史に関する先行研究は数多くあるが、陶磁文化の交流史、特に近代に関する専門研究は少ない。近世、貿易のグローバル化に従い、国家間の相互的な影響が以前より大きくなって、中日欧は相互的に陶磁の輸出を競いながら、相手の陶磁文化を取り入れ、自国なりの風格を形成した。19世紀末、日本も積極的に西洋の先進技術を導入し、斬新な生産技術が発展し、窯業生産も新たな段階に入った。且つ、中国が主な陶磁文化の輸出国とされる論述が多いが、清末における日本の中国への影響について言及されることは近年まで少なかった。同時代に日本政府が実施した清国窯業調査では、当時の清国窯業の様相が詳細に記録されており、20世紀に入ると日本の釉下彩技術が中国へ伝えられるようなことも起こった。
本論の各章節と概要は以下の通りである。
第1章では明末清初の中国陶磁の輸出を巡り、日本と欧州に輸出した製品についてまとめた。研究対象として、日本向けの古渡物の古染付と祥瑞磁、及び欧州に輸出した染付と徳化白磁、呉州手磁器を含め、当時の中国磁器の輸出状況を概観した。また、清朝海禁時期の中日欧における陶磁貿易の様相と、その後の清朝陶磁の再興をについて言及した。
第2章では欧州の絵付け技術の導入による中国における色絵磁器の生産技術の革新と、18世紀に磁器生産に成功した後の欧州の磁器産業の発展について述べた。さらに、近代欧州の先進技術の日本窯業への影響を述べた。19世紀から、中国の陶磁輸出は下火になり、産業革命が起きた欧州では、磁器生産にも新技術を導入して、ドイツのマイセン磁器会社をはじめ、欧州各地に磁器生産窯を創立して、万国博覧会を契機に、世界各国の交流も更に緊密になった。ドイツ人のワグネルを通じて、革新的な釉下彩の技術が日本に導入されて釉下彩磁器が出てきた。また、同時代の清末窯業を巡り、特に当時の時代背景を踏まえ、中国磁器の生産が時勢の影響を受け、停滞した原因について述べた。
第3章では、まず近代日中における窯業技術の交流について、明治時代両国の磁器貿易の様相を探りながら述べた。その次に、明治政府の農商務省の委任で作成された20世紀前後の中国窯業に関する報告書に基づき、当時の清国の、特に景徳鎮の磁器生産の様子を明らかにした。具体的に清国の窯業生産の様相を分析し、特に清国の代表的な窯業地である景徳鎮窯の窯業組織、製造技術、石湾窯と徳化窯について述べた。また、20世紀前後、醴陵窯に招聘された日本の窯業技師がもたらさした「釉下彩」技術が湖南省の釉下彩生産に及ぼした影響を踏まえ、湖南省陶磁学堂と瓷業会社の成立について述べた。
第4章では、近代中国の窯業技術先駆者の養成と貢献を中心に述べた。近代中国における窯業の変革を皮切りにして、清末の「強国運動」の時代背景の元、日本に派遣された窯業留学生とその養成スシテムについて述べた。それから、東京工業大学が受け入れた中国の留学生をはじめ、当時の東京高等工業学校における中国の近代窯業人材の育成、戦前の留学生の育成及び中国人の窯業学生の全体像を探りながら述べていた。また、窯業学生が帰国後に、近現代中国窯業の発展へ及ぼした影響と近代中国窯業技術の革新に着眼して述べた。
最後の結論は、前述した研究を踏まえ、近世近代の中日欧における陶磁貿易と技術伝播の様相をまとめた。中日欧は相互的に陶磁の輸出を競いながら、相手の陶磁文化を取り入れ、自国なりの風格を形成した。近世、日中両国間にかなりの量の陶磁貿易が行われ、中国陶磁は日本陶磁に大きな影響を与えていた。とはいえ、中国陶磁の影響力の大きさと重要さばかりを強調するのも一面的に過ぎるだろう。清初、中国陶磁の輸出が途絶えた時に、東南アジアからヨーロッパに至るまで、世界市場を席巻した日本磁器は中国陶磁の代替品として、時とともに独自色を強めていった。海外輸出が解禁された後の中国陶磁は日本風の意匠をもった磁器を欧州からの注文を受けて生産したこともあった。欧州の窯業は日中両国の陶磁文化と技術を受容した上で、近代の工業化された陶磁生産技術を最初は日本に伝え、それから日本から中国へと伝播し、近代日本と中国の窯業生産を促した。本課題の研究を通じて、前述した陶磁貿易の変遷と技術伝播のルートを全面的に考察した上で、大小・強弱の差があっても、陶磁文化の影響は双方向性があることを明らかにした。
英文要旨
Research on Ceramic Culture Exchange between China, Japan, and Europe in Modern Times – Focus on trade and technical communication –
From the second half of the 16th century to the beginning of the 20th century, the trade circulation and cultural & technological exchanges between Japan and China around ceramics have continuously changed with the relationship between the two countries;the lockdown policies of both sides; the international situation and the development of trade routes at that time.
Moreover, in addition to the ceramic circulation and cultural & technological exchanges between the two countries, overseas export competition targeting the European market has also received attention as a part of ceramic trade in this era. The import of ceramics from China and the absorption and acceptance of Eastern ceramic culture in Europe have received attention in recent years.
From the middle of the 16th century to the first half of the 19th century, China had produced many export porcelains for Japan and Western Europe. In addition to China, Japan has also accepted the production technology and culture of porcelain from the West, European technicians introduced advanced Western technology to Japanese ceramic production.
Taking the opportunity of participating in the 1867 Paris World Expo, the Meiji government was surprised by the development of modern technology after the European Industrial Revolution and began to consider how to import advanced European technology into its own country to protect and revitalize its own industry. The Meiji government continues to promote the introduction of new technologies from Europe and America. Japanese ceramics produced with new technologies have received high praise in Europe and America.
Due to the efforts of Europe and Japan to develop their own kiln technology, the export of Chinese porcelain has once again begun to decline. At the end of the 19th century, the Japanese government dispatched investigation missions to various countries around the world. Based on those investigation reports, it is possible to re-examine the appearance of China’s porcelain industry in the late Qing and early Republic of China.
In the late 19th century, Jingdezhen kiln adhered to traditional technology and production system and opposed the introduction of modern production technology. In contrast, Liling County of Hunan Province, first established the Ceramic Craft Workshop in 1906, which invited Japanese professional teachers to conduct ceramic technology education and introduces the underglaze color technique, which has been influenced by European techniques and promoted in Japan, to China.
The Qing government was stimulated by the successful Meiji Restoration in Japan. From the late Qing Dynasty to the late Republic of China, inorder to learn advanced Western technology and management systems, international students who aimed to learn kiln industry technology were sent to various Japanese universities represented by Tokyo Higher School of Technology (predecessor of Tokyo Institute of Technology). They have had a significant impact on the technological transformation of China’s kiln industry after the 20th century.
In this era, with the globalization of trade, Japan, China, and Europe have interacted with each other, and with the spread of production technology, they have established their own ceramic culture and new aspects of kiln production.
論文審査結果
胡一超氏の論文は、16世紀後半から20世紀前半にわたる、中国、日本、ヨーロッパの間に見られる陶磁文化の交流を、貿易と技術伝播を中心として考察した内容となっている。
本論文は、「序論」、「第1章」~「第4章」、「終わりに」から構成されている。
「はじめに」では、研究目的、先行研究、当該論文の研究領域と研究方法などが述べられている。
「第1章 16~18世紀日中欧における陶磁貿易の変遷」では、まず明末清初の中国陶磁の輸出を巡り、日本と欧州に輸出した製品について論述し、続いて同時期の中日欧における陶磁貿易の様相と、その後の清朝陶磁の再興について言及している。
「第2章 中国輸出陶磁の最後の輝きと欧州の先進技術の日本窯業への影響」では、ヨーロッパの絵付け技術の導入による中国における色絵磁器の生産技術の革新と、18世紀初頭に磁器生産に成功した後のヨーロッパ磁器産業の発展について論述している。さらに、近代ヨーロッパ窯業技術の日本への影響について論述している。
「第3章 近代日中における窯業技術の交流」では、まず明治時代の日本と中国の磁器貿易の様相を論述し、次いで同時代の日本の窯業技術者による清国窯業に関する調査報告書に基づいて、清末の景徳鎮窯・石湾窯・徳化窯など、当時の中国を代表する窯業地の状況を考察している。さらに、日本の近代窯業技術が中国国内に導入されて生み出された醴陵窯の釉下五彩磁器の生産について論述している。
「第4章 近代中国の窯業技術先駆者の養成と貢献」では、20世紀初頭に、日本へ派遣された中国人の窯業留学生の養成と、彼らの近現代中国における窯業技術発展への貢献について論述している。その中で、1904〜42年の間に東京高等工業学校の窯業科が受け入れた中国人の留学生の様相を、人数・出身地・所属・専門などの面において明らかにし、特に、卒業後に江西省の窯業に関わった留学生を中心として、彼らの経歴や果たした役割について論述している。
「おわりに」では、本論文全体の研究成果が簡潔にまとめられており、陶磁貿易の変遷と技術伝播のルートを全面的に考察した上で、陶磁文化の影響は双方向性があることを述べている。
こうした論文の構成と内容について、審査委員からは下記のような評価がなされている。
(1)日本ではこうした分野の研究は、日本と中国あるいは日本とヨーロッパ間の交流という視点でなされているのが一般的であるが、本研究では中国、日本、ヨーロッパいう三地域の交流に視野を置いており、これまでにない研究方向となっている。(2)研究対象が16世紀後半から20世紀前半と長い時間にわたり、かつ幅広い視野の研究となっている。(3)日本からの中国への陶磁文化の影響という、これまであまり取り上げられたことがない研究テーマが含まれている。(4)近代中国の陶磁教育制度の研究という新しい視点が盛り込まれている。
また一方では、(1)第1章は無くてもよかったのではないか。(2)もっと深く切り込んだ研究ができたのではないか。(3)実物資料の調査、観察が不足しているのではないか。(4)文献、論文、図版などの引用の精度を高める必要がある。以上のような点が審査委員から指摘された。
審査委員会は以上の評価を総合して、本論文は博士の学位に相応しい内容であると判定した。
最終試験結果
最終試験(口述)(日時:7月1日 14:00~16:00 場所:一般教育棟3階大講義室)最終試験は、まず申請者が論文の概要を口頭で説明し、続いて審査委員が一人ずつ提出論文について質疑を行い、申請者が審査委員一人ずつの質問に対して回答を行った。質疑応答の結果、論文内容について充分に理解していると判定した。質疑では、20世紀の景徳鎮窯の製品の特徴の説明を求める質問、「東京高等工業学校」、「東京工業大学」の名称に関する質問、130頁11行目の「現在調べられる資料」とは何か、131頁の張浩の築いた「石炭窯」はどのような構造であったのか、「第1章」と「第2章」前半部の本論文全体での位置づけ、中国の陶磁器作家が本論文で取り上げられていない理由、121頁「入学願書から窺われる」という記載の具体的な内容について、この論文で申請者がはじめて提示した内容は何か、醴陵窯に赴いた安田音吉ほか8人の日本人の事績について詳細を調査したのかどうか、など多くの質問が提示されたが、大部分の質問については的確な回答があった。また、一部の図版に適切な説明がない、中国の窯業関係者の事績の紹介の文献引用が不十分、ワグネルの技術の把握が不十分、東京工業大学の窯業教育の資料で他にも研究すべき資料がある、万国博覧会の中国出品作品リストの確認をした方がよい、などの指摘があった。
総合判定
審査委員会は、審査を実施するにあたり「沖縄県立芸術大学大学院芸術文化学研究科(後期博士)博士論文等審査基準」に基づいて、申請者・胡一超氏より提出された論文が要件を満たしているかについて審査を行った。
論文審査、最終試験(口述)の成績素点はそれぞれ100点満点の85点以上を合格とすることとした。
次に博士論文等審査基準に従って審査を行い、評価基準を満たしているかについて判定した。その結果、各審査委員の採点が全て85点を超えていたため、提出された論文が博士(芸術学)の学位に相応しい論文であると判定した。
最終試験(口頭)では、質疑応答を通じて、申請者が当該研究に関する総合的な知見、理解力、研究能力を有していることを確認した。
最終試験(口頭)終了後に審査会議を開き、4人の委員から提出された素点を集計し、平均した結果、最終試験(口頭)の成績が合格点を超えていた。論文及び最終試験(口頭)のどちらの成績も合格点を超えていたため、審査委員会は申請者が提出した論文が博士の学位を授与するに相応しい内容であり、博士論文等審査基準の評価基準を満たしていることから、総合判定を「合格」とした。