Read Article

沖縄のポピュラー音楽史における伝統と創造 ―知名定男の音楽活動を事例として―

氏名(本籍)
高橋 美樹たかはし みき(北海道)
学位の種類
博士(芸術学)
学位記番号
博1
学位授与日
平成17年3月18日
学位授与の条件
学位規定第4条の2
学位論文題目
沖縄のポピュラー音楽史における伝統と創造 ―知名定男の音楽活動を事例として―
ダウンロード
 論文要旨および審査結果の要旨
審査委員
  • 教授 金城 厚[主査]
  • 教授 蒲生 美津子
  • 教授 小川 博司(関西大学)
  • 助教授 久万田 晋
  • 教授 梅田 英春

論文要旨

本論の目的は、沖縄ポピュラー音楽の歴史の中で、伝統的な表現様式を身につけた音楽家のアイデンティティー表現がポピュラー音楽という場で、どのように創り出されていったのかを明らかにすることである。伝統的な表現様式を身につけた音楽家で、なおかつポピュラー音楽という場でアイデンティティー表現を創造し続ける人物として、沖縄のポピュラー音楽の発展に多大な影響を与えた知名定男(ちなさだお)を取り上げる。

研究方法としては、〈歴史的構築〉〈社会的維持〉〈個人の創作と経験〉〈大衆への伝達メディア〉という4つのキーワードから成り立つ、ポピュラー音楽研究のモデルを用いている。さらに、歌手や演奏家がいかなる社会の聴衆を想定し、自己の音楽を創造、発信しているかに基づく、〈内向き〉〈外向き〉という枠組みを提示した。以下の本論では、ポピュラー音楽研究のモデルと〈内向き〉〈外向き〉という枠組みに基づいて、研究課題を追究した。

第1章では、沖縄のポピュラー音楽の歴史を概観する中で、どのような音楽文化が創造され、また、受容されて、社会構造や音楽組織の構造が変化していったのかという視点で論じている。その結果、沖縄系エスニック・コミュニティの人々に向けられた〈内向き〉発信スタイルと、沖縄系以外の日本本土や海外の人々に向けられた〈外向き〉発信スタイルが浮き彫りになった。

第2章では、「しまうた」呼称にまつわる民謡、島唄、新唄などの諸概念が、沖縄や奄美諸島でどのようなプロセスを経て成立したのかを考察した。その結果、「民謡」は東京中心の中央から沖縄という一地方へ、「しまうた」は一地方から日本本土へと、全く逆の力関係によって大衆へ受容されたことが明らかになった。

第3章では民謡歌手としての知名定男に焦点をあてている。戦後第1世代の登川誠仁(のぼりかわせいじん)、戦後第2世代の知名定男、戦後第3世代の前川守賢(まえかわしゅけん)という各世代を代表する民謡歌手のライフヒストリーと音楽活動を考察し、世代別に比較することを通して、戦後沖縄における民謡歌手の活動形態の変容を明らかにした。その結果、〈内向き〉発信に関しては、3人共〈継承重視型〉の志向が顕著にみられた。また、〈外向き〉の発信に関して、登川は日本本土のプロデューサーの主導型、知名は歌手、作詞家、作曲家、プロデューサーという総合プロデュース型であった。前川の活動は沖縄系エスニック・コミュニティ以外の人々へ向けられていない、と捉えられた。

第4章では、知名定男の作詞家、作曲家としての側面を浮かび上がらせるために、知名のオリジナル作品を分析した。その結果、沖縄社会で大衆に共有されているイメージを作詞に織り込むスタイルが浮かび上がった。このスタイルは《バイバイ沖縄》や《ウムカジ》の作詞において、より顕著に表われていた。さらに、知名は作品を生み出す局面において「サンドイッチ構造」を導入している。知名が創作した作品の中で、《バイバイ沖縄》と《明けもどろ》には有節構造において「サンドイッチ構造」が取り入れられていた。また、《テーゲー》と《CHICKEN海ヤカラー》には、曲全体の形式構造において「サンドイッチ構造」を導入していた。

第5章では、プロデューサーとしての知名定男が、沖縄以外の〈外向き〉の活動を成功させるために、日本本土や海外のポピュラー音楽界に向けてどのような構想を持ち、音楽としての表象をつくり出していったのかを明らかにした。具体的には、知名がプロデューサーとして関わったネーネーズを取り上げ、ネーネーズのメンバー個人のライフヒストリーから、ネーネーズを通じた音楽意識の変容を考察し、解散後にみる各人の音楽的志向を浮かび上がらせた。

1990年代におけるネーネーズの成功は、1970年代の知名の全国デビューと比べ、活動の構想やポピュラー音楽界での成功を目指した点において、共通している。しかし、活動の背後にあるポピュラー音楽シーンは、とりわけ、1980年代のワールド・ミュージック・ブームを境として、大きく変貌を遂げてきた。この大きな変化が伝統音楽と欧米のポピュラー音楽の様式を融合した音楽に対する受容度を高め、ネーネーズも聴衆に受け入れられたのである。すなわち、1970年代に持っていた考えを、1990年代まで持続させていた知名だが、それらを〈社会的に維持〉する背景が変化し、ポピュラー音楽界の〈歴史的構築〉と〈大衆への伝達メディア〉の展開に伴って、知名定男プロデュースによるネーネーズはポピュラー音楽の世界で成功したと考えられる。

Return Top